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うしくろの歴史

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家族の思い出がつまった味道園

長兄思想の韓国人家庭に育った韓永紀社長。三人兄弟の長男として、現在は会社をはじめ、弟の永勲専務、永三取締役をサポートしている。社長が小学校一年生の時、父親は葛飾区内で親戚が経営していた四店舗ある中の一つ、高砂の味道園に修行へ行き、母の弟とともに葛飾区亀有に焼肉店を開業した。米沢亭の前身となる味道園の誕生だ。
当時は和牛焼肉がまだ珍しく、とにかく繁盛した。両親とも忙しく働き回り、「勉強しなさい」と言うことはなかったが、姿勢や箸の持ち方など、挨拶・礼儀はとことん厳しく躾けられた。兄弟喧嘩をすると母親がやってきて、「お兄ちゃんのいうことをなんで聞かないの! 」と言いながら、三人を分け隔てなく靴べらでバシバシと叩き静めるのが常だったという。
人気店となった亀有の味道園は、社長が小学校三年性の時に親戚が経営する東小松川の店舗を居抜きで買い取り移転。その三年後の一九八九年には、二店舗目となる菊川店を二億円かけてオープンするなど景気好調の波に乗り、味道園の売り上げは右肩上がりに上がっていった。
明治学院大学を卒業した社長は、手に職をつけるべく税理士を目指し専門学校へ通い始め、次男の永勲専務は韓国の成均館大学・貿易学部に留学していた。ただ当時の韓国では在日韓国人へのいじめがあり、二割程度しか無事に卒業できない状態だった。専務はともに留学した仲間五人と団結、教授からの逆えこひいきに負けることなく、時間はかかったが、みな無事に卒業に至った。日本に帰ってからは竹馬の友の誘いで、永勲専務は三経本社へ就職をした。

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二〇代にして大金を手に入れる…そして大きな挫折

永紀社長が専門学校に通い始めて一カ月ほど経った頃、就職せずに学生生活を続ける姿を見て父が声をかける。その時はじめて「税理士になろうと思う」と父親に伝えた。すると、「君に他人のお金を勘定することは性に合わない。商売をやりなさい」と言われる。最初は驚き反抗しようと思ったものの、父親の人を見る目が確かであることを信じると同時に、面白そうだと思い従うことにした。
いざ商売をはじめようとしても、中々いいアイデアが思い浮かばない。そんな時、父親と叔父のすすめで、当時まだ新しかった宅配寿司を始めることになる。他でも始めているところもあったが、まだ浸透はしておらず、物珍しさも手伝って大当たり。マンションが多い塩浜エリアに新しい店舗を立ち上げると、驚くほど注文が殺到し社長は二十四歳にして大金を手にした。すっかり金銭感覚のタガが外れてしまい、店で頑張っているスタッフを尻目に、高級外車を乗り回し、連日、高級店を飲み歩くようになる。
しかし好調の波もここまで。ろくにリサーチをせず宅配が向かないエリアに三店舗目を進出してしまったため、売り上げが全く伸びず赤字店を抱えることになった。追い打ちをかけるように、宅配寿司ブームが終焉。広告宣伝費用をかけても、売り上げが全く上がらず、回収するべく更に宣伝するといった悪循環に陥っていった。
これまで挫折感を味わったことのなかった永紀社長は現実逃避するべく酒に逃げた。酒を飲んだまま店舗に立ち寄り、周囲に檄を飛ばす姿を見て、スタッフはすっかりやる気をなくし、一人また一人と去って行った。悪いこと続きで躁鬱状態に悩まされるようになった三十三歳の永紀社長は、自己破産で会社を倒産すると同時に韓国青年商工会も休会、築き上げてきた地位をすべて失った。苦境に立った永紀社長は、セミナーに参加するなど意識改革に励み、今までの自分を変える努力をする。

実家が競売にかけられる

その頃、人気店だった味道園もかつての輝きを失っていた。永勲専務は借金が膨らんで立ち行かなくなった実家の惨状を目の当たりにし衝撃を受ける。頼りになる社長も窮地に陥っていたため、「助けられるのは自分しかいない! 」と奮い立った。専務は会社から留意されたものの、三年間のサラリーマン生活に別れを告げ、家業を手伝うようになる。店に新しい風を吹き込んだ永勲専務のお陰で、なんとか売り上げを持ち直したが、経営状況はまだまだ厳しい状態だった。
弟の頑張っている姿を見て、永紀社長もやる気を奮い立たせる。「一緒に頑張ってやっていこう!! 」と気持ちを新たに、焼肉店を手伝うようになった。味・サービスの改革に乗り出すと、頑張る二人の姿を見た常連客が戻り、新たな顧客も徐々に増えはじめた。
だが、ここで大きな問題が発生。店舗が不良債権として競売にかけられたのだ。すると新聞で競売の公示を見た父親の友人が助けの手を差し伸べてくれた。お陰で、店舗を手放すことなく営業を続けることができた。

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苦難を乗り越え、菊川・東小松川に米沢亭が誕生

上がり調子ではあったものの、設備・内装の老朽化、自己流では限界があった。今ひとつ売り上げアップの決定打に欠けることに頭を悩ましていたが、業界紙『焼肉文化』の編集長であるB氏、焼肉のコンサルタントであるE氏との出会いが味道園を大きく変えた。
永紀社長が焼肉文化の友の会の集まりに参加した時、E氏が手掛ける群馬の人気焼肉店で食事をした。その肉の味に感動した社長。いままでの焼肉の概念を覆す旨さに舌を巻き、即座に弟子入り志願。菊川から群馬県伊勢崎市まで往復する日々が始まった。深夜一時まで味道園で仕事し、早朝、高速道路は使わず片道四時間ほどかけて群馬へ向かう。ランチの間に修行し、また菊川に帰り、自身の焼肉店で働く……。「身体を壊さないのが不思議なくらいだったが、店のため、家族のために頑張れた」と当時を振り返る。努力の甲斐あって、行列ができるまでに成長した。
そして二〇〇五年、兄弟三人で株式会社サンエイフードサービスを設立。茨城県で働いていた三男の永三取締役も、兄二人の姿に刺激を受け「ぜひ一緒に頑張りたい」と自ら厨房に立つと願い出たのだ。
新しい気持ちで店の経営をスタートしたいと考えた永紀社長は味道園から米沢亭に名前を変えて再出発したいと申し出た。もちろん名称を変えるだけでなく、厳選した黒毛和牛を仕入れ、仕込み方法を変える。さらに、修行時代に学んだタレのレシピと韓家秘伝の味とをミックスするなど、味の変革にも力を注いだ。
二〇〇六年四月、韓国家庭料理焼肉 黒毛和牛米沢亭・菊川店がリニューアルオープン。味はもちろんサービス面も徹底、スタッフの意識を高めるなどの施策を続けたことで、売り上げは好調。続く二〇〇七年五月には、韓国家庭料理焼肉 黒毛和牛米沢亭・東小松川店も新装開店した。二店舗とも売り上げ好調で、週末は行列ができるまで成長した。
2013年7月には文京区千駄木に新店舗をオープンした。社員、スタッフと共に一層気を引き締め、これまでの経験とノウハウは新天地でも通用する、という強い信念をもってスタート。現在、着実に売上を伸ばし、菊川、東小松川に続く3店舗体制を構築した。

新屋号「うしくろ」へ、10店舗体制への幕開け

菊川、東小松川、千駄木の3店舗体制が経営基盤となり、目標である10店舗体制への高みを目指す時がきた。
この目標を実現するあたり、黒毛和牛焼肉専門店であることの店舗と料理・サービスの一体感や、一層お客様に身近な存在であることの必要性がでてきた。今後、店舗を増やすのにイメージは大切だ。創業以来一貫して食材にしてきた黒毛和牛というブランド牛の店であるということをアピールしたい。皆様に、この味覚を、より身近に楽しんでいただきたい。3兄弟話し合いの末、結論がでた。
それは、新屋号「うしくろ」。10店舗体制への幕開けであり、実現への決意でもある。

ピンチが団結のきっかけになる

社長は、会社設立の一年前に七〇万円の費用を捻出し参加した経営者勉強会でM氏と出会い、NLP(神経言語プログラミング)を学ぶ機会を得た。人とのコミュニケーションを活発にし、信頼関係を深めることができる手法を習得したことで、ほとんど会話のなかった兄弟の関係ががらりと変わった。「ピンチが家族団結のきっかけになった。会社設立後にNLPを本格的に学習したことで、協力しあうこと、ともに働くスタッフ・家族・周囲の声に傾聴することの大切さを学ぶことができた」と社長。今でもM氏は、永紀のメンターであり、人生の師匠である。
NLP習得後はスタッフの当事者意識を高めるべく、店に関することを決定する会議を二週間に一度実施。情報共有・意見交換を活発にすることで、各人が責任感を持って仕事に励むようになったという。
現在、永紀社長は現場以外の会社業務を一手に引き受け、サポート側に回っている。社内においては、従業員の人間力向上を意識し、相談を受けアドバイスするようにしている。社外においては、同業の経営者へのコンサルティング活動を行っており、高い評価を得ている。常に内外に情報アンテナを拡げ、理念の追及と目標の実現のため、奔走している。数々の苦難を経験したことで「人生は幸せにした人の数、喜んでもらえた人の数で価値が決まると思う」という考えに至った。「飲食業界で働こうと考えながらも、くよくよと悩んでいる人がいるなら、話を聞いて夢を叶えてあげたい」と語る。

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